司馬遼太郎「龍馬が行く」より。
龍馬の盟友武市半平太を表した言葉です。

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この名言の意味とは?

その人物の格調の高さは薩摩の西郷に匹敵するであろう。
その謀略のうまさは薩摩の大久保に肩をならべ、その教養は前両者

よりも豊かで、しかもその人間的感化力は、長州の吉田松陰に及ばすとも
似ている。が、もっと重要なところで、武市はちがっている。

仕事をあせるがままに、人殺しになったことだ。天誅、天誅というの
は聞こえはよいが、暗い。暗ければ民はついて来ぬ。(「龍馬が行く」より)

これほどまでに評価されていた武市ではありますが、志半ばで投獄、切腹させられました。

「暗い」とは二つの意味を持つのではないでしょうか?
一つは人物の「暗さ」。まさに粛清一本やりで恐怖をもって人を制したと
いうやり口。
もう一つは先行きの「暗さ」でしょう。
この人について行っても先は無いと。

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経営と重ねて考えてみる

現代の経営者と重ねてみると武市も短期的には成果は生んだんでしょう。
しかし制裁をもって管理監視するやり方ですと長続きしませんよね。
なにしろ人が付いてこれない。

経営も自治も長続きすることが前提です。
日々身を削っていくようなやり方が続くわけがありません。
残念ながら武市のやり方は短期的に業績を回復させるためのそこ
特効薬的な手法で、長期にわたるリーダーではなかったということですね。

また民は先の暗い未来には希望を抱きません。
漠然とした未来への不安は、現在の行動を抑制します。
老後の生活不安のある現在の日本において、「漠然とした不安」を
感じている人が多いのも頷けます。

経営者も政治家も未来に対する「暗さ」をいかに払しょくして、希望を
抱かせることができるか。そこが課題だと思います。



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未来を自ら迎えるという姿勢

ただ来る未来を的確に予測して、それに対する取り組みを考えるだけでは
なく、重要なのは「希望あふれる未来を創造する」ことだと思います。
未来を自ら創り、迎えるという姿勢ですね。
それがこれからも求められる指導者としての在り方ではないでしょうか。